『東京支部の現状』ふるってご参加を…
東京支部長
城東17回 三谷 慎治
平成九年六月の東京支部総会で竹口前支部長より引継ぎを受けました。東京支部の皆様方の親睦を図りながら支部の維持発展に努めますのでよろしくお願い申し上げます。
東京支部は関東地方在住の旧職員、卒業生約千九百名(内徳女約三百名)からなっています。城東卒業生のうち33回(昭和57年卒)までは各学年ともほぼ三十名以上(多い学年は百名超)いらっしゃいますが、その後は二十名台となっています。このたび同窓会本部において名簿が作成されましたので、この情報をもとに東京支部名簿を充実させてゆきます。
東京支部のメイン行事は支部総会です。順送りの学年幹事の皆様の献身的な努力と工夫のお陰で、ここ数年参加者が増加傾向にあり、一昨年と昨年は百三十名を超えました。ただ今後の問題点が二つあります。
第一は六月第二日曜日にセット出来るかどうか危うくなっています。ジューンブライダルの隆盛で、我々のように単価的制約のある行事は予約を取るのが非常に困難となってきています。第二は会食の形式です。消費税を含めた単価のアップにもかかわらず、会費は一万円に据え置いており、またこれが同窓会としての上限と思われますので、いずれ着席形式ながら、バイキング風の会食に変更せざるを得ないのではないかと思います。
さて東京支部の運営には支部会報「藍」の発行費、通信費等の経費がかかっており、これらの経費は年額千円の支部会費でまかなうこととしております。ここ数年約五百名の方から年会費を送金頂いております。会員の皆様のご負担がなければ運営できない団体ですので、お手数ですが同封の振込用紙にてお振り込みのほどお願い申しあげます。
東京支部の役員は別記のとおりですが、順次若い年次へと引き継いできています。総会幹事も順送りで引き受けて頂いております。また各学年の幹事の方には貴重な時間を割いて総会の案内の発送をお願いしております。会員の皆様方には折に触れ何かとご協力をお願いすることになろうかと存じますが、よろしくお願い申しあげます。
徳島より ご挨拶
校長 岩田 忠男
新しい年を迎えられ、城東渭山同窓会東京支部の皆様におかれましては、益々ご清栄にてご活躍のことと、心からお慶び申しあげます。
平成八年四月に本校に赴任してから、二年間にわたりまして同窓会の皆様には機会あるごとに格別のご支援とご指導を賜り、ありがとうございました。また本校が九十五年の輝かしい歴史と伝統の上に立って、現在でも良き校風と実績を持ち続けていられるのは、偏に先輩の皆様方の母校に対する熱い思いの賜物でありますことを、ひしひしと実感させていただきました。
昨年の十月に同窓会名簿が新しく改訂されました。その名簿を眺めますに、本校の卒業生の先輩の方々が、徳島県下のみならず日本全国、そして広く海外まで雄飛し活躍されている様子は、誠に頼もしく思われました。名称が変わり、時代が変わっても、伝統はそのまま引き継がれていることを確信した次第でございます。
本校は現在三十四学級千三百六十名の生徒が学んでおります。多様化しつつある生徒に対応し、個性を尊重し一人一人を生かした指導の推進と、自己教育力の育成、習熟度別学習の拡充などに努めているところです。
現在、徳島県では学科再編をはじめとした教育改革が次々と打ち出され、特色ある学校づくりに取り組んでおります。本校でも長い歴史と伝統の上に立ち、将来を見据えた教育を実践するべく努力を続けたいと思っております。
最後になりましたが、皆様の今後益々のご多幸とご活躍、並びに城東渭山同窓会東京支部のご発展を心よりご祈念申し上げます。
『徳女在学時を回顧して』
城東渭山同窓会会長
徳女42回 妹尾 房子
長い城東・渭山同窓会の歴史の中で、私達の年代だけが命懸けて体験した五十年前の「通った道」を思い出して綴って見ました。
昭和十六年四月憧れの徳島高女に入学し、その喜びも束の間、戦局は日増しに厳しさを増し、遂に昭和十六年二月八日太平洋戦争に突入いたしました。それからというものは、学園生活にも戦時色が頓に濃くなってまいりました。
先ず第一に、憧れの制服は当時の数え歌で「五つとせ、いつまで見てもあきたらぬは、徳島高女の色ネクタイ」と若者達によく口ずさまれていましたが、その制服も時局に合わせて活動的な装いということで、国民服とモンペ姿に変容いたしました。数え歌を歌っていた若者達も次々と召されて戦場におもむき、新聞紙上や、ラジオニュースで相次ぎ散華の報道に接し、悲しみと時局の深刻さがますます増してきました。
私達も勤労奉仕で田植、麦刈、稲刈、芋掘り、桑の株切り等慣れぬ仕事を汗だくで、何ひとつ不平不満も云わず只黙々と、少しでも銃後の守りにお役に立てるならばとの思いで精一杯働きました。学校内では、裁縫室で陸軍の防暑服を作る仕事に携わりました。流れ作業で次々と仕事が流れてまいりまして、息つく間もなくひたすら自分の責任部分の襟のミシンかけで無我夢中な毎日でした。
いよいよ、昭和十九年には学徒勤労動員令の発令により翌年四年生の二月、川崎航空機徳島工場に学徒動員され、毎日徒歩で佐古八番町の我が家から、北田宮の工場まで通いました。造っているのは航空用の酸素吸入器でした。私の部署は、半田付けでしたが、何分初めての経験なので一所懸命打ち込むうち、段々熟練はしてまいりましたものの、それでも時々検査に通らず、責任を果すのにつらい思いを今でも思い出し、胸が一杯になります。
三月には一年繰上げの卒業のため、一日だけ工場から久し振りになつかしい学校に帰りました。そして翌日から又学徒動員の復帰生活が続きました。
その当時心なごむ思い出は、あの美しいメロディー「新雪」の歌でございます。
むらさきけむる新雪の
峰ふりあおぐこの心
ふもとの岡の小草をしけば
草の青さが目にしみる
とみんなで声を揃えて歌い、明るく青春を謳歌したものです。今でもこの歌は心の糧として励みとなり、また青春がよみがえってきた心境になります。そうするうち七月三日夜半から四日早朝にかけて誰しも忘れられない徳島空襲により、一夜にして家も学校も工場も灰燼に帰し、見渡す限りの焼野ケ原となってしまいました。
このように私達の青春は戦時下に徳女時代を過ごし、卒業の年に敗戦し、そして戦後の混乱期、新しい日本の躍進、この五十年の歳月をいましみじみとかみしめております。特に印象深い学徒動員時代の経験は、人生の一齣として、今も心に焼きついております。
『支部総会レポート』
城東11回 岡山 勝敏
恒例の城東・渭山同窓会東京支部総会は平成九年六月八日、東京霞ヶ関、東海大学校友会館にて百三十余名の参加のもと、盛大におこなわれました。総会は11回、鈴木舜一氏の司会で始められ、本部、支部長挨拶に続き、岩田学校長より母校の近況、ならびに将来のビジョンが披露されました。特に今年はラグビー部の三十五年振りの全国大会出場や有名校への進学状況を伺い、母校が文武両道の伝統を堅持しながら発展を続けていることに同窓会員の一人として深い喜びを感じた次第です。
また、今年は城東での在職年数が長かった真鍋嘉代先生、山本邦直先生、小原和男先生をゲストに迎え、また17回生と関わりが深い阿部健先生や現役の先生方、同窓会本部からは会長、副会長三名、顧問二名、事務局員多数の御出席を賜りました。
今回はゲストテーブルを作らず会員の各テーブルにそれぞれ御着席頂き、懐旧談義に花を咲かせることができました。また恩師を囲んでの記念撮影もあちらこちらで行われて、なごやかな歓談が進むなかで時の経つのを忘れてしまう程でした。
宴たけなわの頃、NHKアナウンサー室、チーフアナウンサーの蔭山氏(13回)からミニトークとして放送裏話が披露されました。三十年間のアナウンサー生活での苦労話、言葉の使い方、諺の解釈については思い込みによるミスが多いなど専門家らしい、それでいて素人にもよくわかる内容で拍手喝采を受けておりました。
また、母校PTA会長、武久洋三氏(11回)から御挨拶をいただきましたが、二〇〇二年の創立百周年に相応しい記念事業を検討中とのことで、同窓会一同、期待に胸を膨らませながら、これまた万雷の拍手で賛同の意を表しました。
出席者の最年長者は徳女27回卒の吉川ヨシエさんと徳島から駆けつけて下さった福島葉那子さんでお二人に今後の御健康を祈念して11回幹事が支部を代表して花束を贈呈しました。
最後に、全員で徳女、城東の校歌を力強く斉唱した後、来年度幹事(第12回)の紹介と挨拶を受け、同窓会員一同、一年後の再会を期して、総会を終了致しました。
近況・雑感 『思い返せば』
徳女36回 古田 種子
「見よ東海の空明けて…紀元は二千六百年…」の歌声も高らかに卒業したのは昭和十五年である。このことだけが鮮明に心に残っていて、さて、自分は徳女何期生なのか未だにはっきりしていない。瀬戸内寂聴さんと同期といえば合点してくれる便利さもあるが、これですぐに年齢が解ってしまう不都合もある。
女学校時代は表にでることを極力嫌い、ひたすら身を隠して日々弓道場に通った。そのころ国語教師で弓道部の顧問であった美しい鈴木先生にかわいがられて、ひたすら一人弓を楽しんだものである。
大阪府女専卒業後すぐ県立の撫養高女で国語と弓道を教える事になったが、自分の中に人前でしゃべる才能のあることを発見、教職に専念して大いに人生を楽しみはじめた。その頃大東亜戦争は熾烈を極め、昭和二十年徳島市は壊滅、すべてが灰になってしまった。終戦、結婚、私の人生も大きく転換。大阪へ、ここで請われて布施第五中学の教師となり、教師と妻と嫁と母と・すべてを一身に背負って猪突猛進・我ながらよくやったと感心している。
昭和三十九年の主人の赴任に伴って関東に移り、ここで家事に専念、妻と嫁と母と社会人としてのお役を背負ってこれまた猪突猛進・昭和五十年子供二人を手放し、やっと我にかえり、自分の趣味に生きる事となった。主人と主人の両親を見送って今は一人で好きな生き方をしている。すっかり忘れていた郷里徳島のこと母校のことが蘇る年齢になった。時には同窓会にも出てみようかと思い始めたとき、今までの過労から手術・療養を強いられることになった。しかし今取り組んでいる俳誌『一位の実』の発行が生涯の我が生き甲斐となっている。
『第二の故郷を顧みて』
徳女37回 稲垣 美智子
私の青春は戦時色の次第に強まる女学校時代でした。当時の事は徳女37回の記念誌「過ぎし五十年」(一九九二年盛夏発刊)の中に友人がいろいろ語っています。この五十年誌を読むと、とても懐かしく、心も体も震えます。編集委員の方達のご苦労が有難く身に沁みます。
吉野川の雄大な流れ。桜花の美しい眉山からの眺望。鳴門の渦で育った鯛や蛤・わかめの味。歯ごたえのある蒲鉾。すだちの色。早朝、薙刀の寒稽古のあと寮舎の食堂で頂いた熱い藷粥と沢庵のぬくもり。県庁前の新町川を渡し舟で通った朝の通学路。校章入りの黒いカバンを肩から斜めに掛け、息を弾ませて走ったこと。千人針。週一回のゴマ塩弁当の検査。農家の手伝い。軍足。配給制等。厳しさの中にも自由があり、人情味が溢れ、身につく教育をして下さった恩師。それ等が、東京生まれの私にとって徳島を心のふる里にしています。恩師行成先生は、新卒ですぐ私達五年藤組を担任されました。茶目っ気の多い生徒揃いでご苦労をおかけしたと思いますが、淡々として温かい指導をして下さいました。今も、ひたすら感謝しております。過日、一年先輩の瀬戸内寂聴さんが文化功労者に選ばれたことも嬉しい限りです。
私は、昭和十六年の春、徳女を卒業後続いて奈良女高師に進学、十九年九月末戦時下で繰上げ卒業し、その後延べ四十五年間の教職を経て平成八年に退職致しました。過去を振返った時、徳女は、私の人間性を育んでくれた原点です。
『思う事』
城東13回 田村 允子
十一月も終り頃、テニス友達と奈良旅行に出かけました。紅葉には少し遅れましたが、興福寺、東大寺、お水取りの二月堂、春日大社を経て、その夜は熱燗、柿の葉ずしを食べました。奈良は小学校の修学旅行以来四十二年ぶり、そして高校を卒業してからも三十五年経ってしまいました。
昭和六十年前後。パット・ブーンやポール・アンカ、プレスリーの歌声に、自分の多感だった(?)十代の頃が目に浮かぶ。友達の顔、先生の顔もあの頃のまま。ただ、ヒット・チャートに熱中し、映画、音楽、読書など、さまざまな好奇心を満たしてくれた友達との付き合いを楽しめたのは中学校時代だったかしらと思え、その点高校の三年間というものは、どちらかと言えば進学への準備期間、といった色合いがあり、同級生とのかかわりも印象に薄く、その事は年を経て、何やら残念な思い出ともなっていました。
何年前になりますか、久しく見送っておりました東京支部の城東渭山同窓会に勇気をもって(?)参加してみました。東京の中の徳島にいると思えるひととき。久し振りの校歌。思い切り歌ってみる。誰に遠慮がいるものか。
そして今や毎年出席組となっております。同じ世代ってやっぱりいい。肩の力も抜ける。何でも話せる気がする。昔出来なかった話を今したい。そんな仲間意識にすっかりはまってしまったようです。城東13回生の横のつながりも出来上がってきました。個性豊かで人間味もたっぷりの人たち。
これからもよろしくね。
『赤いレンガ塀への回想』
城東26回 花岡 浩司
よく遅刻をした私は、当時陸上部の部室のあった裏側の赤レンガの塀を乗り越えて、プールの脇から教室に入っておりました。赤レンガ造りのそれはとてもよじのぼるに好都合にできておりました。
現在、仕事柄、欧州特に英国とイタリアに行くことが多く、これらの国々に共通して云える事は、私の子供の頃の風景と何ら変わらず、今は東京の街中では見られなくなった赤い円柱の郵便ポストがどこでも見られ、木の電信柱が今でも役割を果たし、タクシーのドアも相変わらず自動ではなく、ロンドンでもミラノでも車で三〇分も走ればのどかな、今となってはある意味での優雅なパノラマが展開されて、私と妻にとっては、必ず云う言葉が、「ホッとするね」なのです。
何を云いたいかというと、現在は、日本中どこにいてもリアルタイムで情報が得られ、映像が送られ、電話に至っては画像が見え、表情を見ながら話ができるようになり、来年には携帯電話がインターナショナルにもなるそうですが、私達はそれらがなかった時代でも電話のダイヤルを回して通話をし、ファクシミリや携帯電話がなかった時代でも仕事ができていたはずなのです。
便利になった分だけ、私達は何かをなくしているのではないかといつも思います。
今年もまた英国の赤いレンガ造りの塀を見たら、遅刻して部室の裏のそれを乗り越えて教室に入るなつかしくもくすぐったい高校生の姿に自分を重ねて想うのでしょう。
『セピアの遠景』
城東16回 玉井 誠治
昭和三十七年、木造の講堂と体育館の間を抜けてゆく風はわずかに秋の匂いを感じさせた。体育館の軒下に作られた小屋掛けの部室は汚なく、臭気と埃りで吐きそうになった。しかしそれも一週間で慣れた。「一年は昼の時間にボール磨き」…遅れてやってきた悪しき新人がこれをよくサボった。手塚達の冷たい視線を浴びた。それまでは落ち着かない気分で山岳部(阿部先生)にいた。汚れたガラス越しに音体部のレオタード姿を横目で見ていたのは自分だけではあるまい。
学芸(徳大)との試合に三年生が一人欠けた。何も知らぬ自分に出ろという。『兎に角、俺の斜め後ろにどこまでも付いてこい』と山田先輩。それしか出来なかった。突然に山田さんが自分にボールを投げつけてくる。ひたすらそれを抱えて前に走った。気がつくと誰も追いかけてこない。『下につけろ』犬伏さんが叫ぶ。言われるままにした。ピッと乾いた笛が鳴った。入部五日目の土曜日。初トライだった。
校舎の立て替え時期が我々の時代だった。グランドを作ってほしいと校長に直訴したことも。学芸、工学部、城東中、ろう学校、西の丸と、その日暮らしの練習。でも充実していた。「三色」と意地で食った「ラグビーパン」の味。ジャージ、汚れた体を洗った講堂の前の水道の感触は今もある。一年の冬、ろう学校で雪の中で練習したのをよく覚えている。山川先生の撮った写真は今はすっかりセピア色。
二年の夏、部室は二棟の端に移動した。バスケコートの前、銀杏の木の向こうにテニスコートが見えた。病気をおしての合宿は辛かった。工学部のグランド…草イキレ、照りつける太陽、脳震盪、捻挫、打撲。心身共にボロボロ。ついには休部した…。つらい闘病の日々が続いた。木枯らしが吹き、体育館が取り壊された頃に復帰した。
三年の春に一棟の跡に小さなグランドが出来たときはうれしかった。軽い練習ならそこで出来た。六月に市立の試合で頭部に怪我。動揺した自分を多くの友人達が励ましてくれた。花束で埋まった医学部の病室。小原先生の笑顔、片山先生の言葉、見せてもらった『ヴィーナス展』の本、窓からの眺めも今も脳裏に鮮明に残る。
三年の夏は「暑く」過ぎていったような気がする。『そんな汚ないままで泳がんといて!』と水泳部の女子。あのプールも今はもうない。秋の訪れ…日暮れては音体部にロウソクをもらったのを覚えている。
最後の試合は市立のグランドだった。『花園』は遠くで輝いていた。森先輩らの期待に応えられずに終わった自分のラグビー。あれから多くの春秋を重ねた。拙い文章で綴られた当時の日誌を読んでみると、その多くは幻だったのではと思うときがある。だがしかし、左腕に今も残る不安な痛みと傷は確かに我が高校時代のもの。