平成7年度東京支部活動報告
城東渭山同窓会東京支部・支部長
城東16回 竹口省三
去る、2月17日今年度東京支部総会幹事にあたる城東十回卒業生と支部役員の打合せ会が雪の降りしきる中、会場の下見を兼ねて如水会館にて行われ、例年の如く東京支部の新年が始まりました。こうして、6月の総会まで幹事のい方々の情熱と努力による準備が続きます。
昨年の東京支部総会は、徳島から本部同窓会の鹿子会長、母校から安藝校長をはじめ8名の来賓を迎えて例年どおり6月の第二日曜日、6月11日に池袋サンシャイン・アカデミーホールで開催されました。
支部の事務手続きに続いて、鹿子会長の祝辞、安藝校長の母校の現状を含むご挨拶を頂いたあと、昨年の向田邦子賞を受賞された9回卒業の鎌田敏夫氏から城東時代の仲間たちとの様々な思い出や現在の同級生との交流について、また『29才のクリスマス』に代表される若い感性について心に残るお話がありました。
鎌田さんのスピーチのあと全日本のトップダンサーである城東29回卒業の花岡浩司・律子夫婦による華やかなダンスタイムとなりました。
花岡さんの指導によるワンポイントレッスンに有志が興じたあと、ご夫婦によるデモンストレーションが行われ、会場はまるでヨーロッパの宮廷の舞踊会の雰囲気となり、その余韻が会の後まで残っていました。また律子さんの胸を7回卒業の笹川寛氏の提供による豪華な宝飾品が飾り女性会員の目を輝かせていました。
このあと当日参加中の最高齢、徳女30回の卒業生と最も若い城東40回の卒業生に対する爆笑のインタビューがおこなわれて、会は和やかに進行してゆきました。なにしろ進行はNHKのチーフアナウンサーの影山武人氏(城東13回卒業)で、アルコールのグラス片手に会を盛り上げて頂きました。
最後に、全員の徳女と城東の校歌を斉唱して7年度の総会を終え、それぞれの仲間と共に三々五々池袋の街に消えていきました。
今年も素晴らしい総会となるよう皆様のご参加をお待ちしております。
城東高校近況
校長 安藝 武
東京支部会報「藍」3号の発行、心からお祝い申し上げます。城東渭山同窓会東京支部会員の皆様の心のつながりと母校のつながりとしての会報が毎年発行されることを心強く感じるとともに、感謝申し上げます。
母校城東高校は明治35年、徳島県立高等女学校として創立され、その後、学制改革により城東高校に受け継がれ、本年で95年の長い歴史を積み重ねていることになります。また、徳女としての卒業回数は46回、城東高校としての卒業回数は本年度で47回を迎えました。
現在の生徒数は1年(13クラス)519名、2年(12クラス)479名、3年(11クラス)440名、計1,438名(男子686名、女子752名)教職員は87名で教育活動を展開しております。女子が70名ほど多く、徳女の女学校としての面影をまだ残しております。しかし、この生徒数を受け入れるには校地がやや狭く、生徒には苦労をかけているのですが、それにも負けず、学業にスポーツによく励んでおります。
昨年度卒業生の入試状況は、国公立合格者数は延べ130名、私立大学の合格者数は約280名の合格者数であり、よく健闘しております。また、就職者数は11名おりました。本年度のセンター試験出願者は321名、就職者は8名で、健闘してくれるものと確信しております。
クラブ活動につきましては、全国大会へバドミントン・空手・登山・弓道部が、四国大会へは全国大会出場の部とソフトボール・テニス・水泳部が出場しております。その他のクラブにつきましても県レベルでりっぱな成績を残し、よく活躍しております。また、来春より希望の強かった軟式野球部が創設できることになりました。ネックとなっておりました練習用グランドが関係諸機関の協力のもと吉野川河川敷に確保でき、同窓会、PTAの賛同のもと部活動としての展開が可能となりました。
今後、大切に育てていこうと考えております。
施設設備につきましては、身体に障害を持った生徒が入学したため、現在までその生徒が生活し易いように校舎内外を改善してきましたが、本年は校地北側の特別館にエレベーター設置工事が進行中です。その関係より、生徒同志の助け合いの精神も徐々に向上してきており、更に、教職員と生徒の一致協力のもと、人間的でふれ合いの濃い、また学習し易い環境つくりに向けて努力できる体制が出来あがろうとしております。
新教育課程も2年目となり、高校教育は大きな変換期にさしかかっております。この時期にこそ、徳女から培われた古き良き伝統を基礎として新しい環境・教育の場をつくりあげなければなりません。城東高校によせる母校愛を同窓生と共に育んでいただくとともに、今後とも母校に対してのご協力、ご支援をお願い申し上げます。
本部同窓会の近況
城東渭山同窓会長
城東18回 鹿子恭志
東京支部の盛況を心からお慶び申し上げますとともに、支部会報「藍」の発行をお祝い申し上げます。
同窓会会員は、今春の第47回卒業生の438名を迎えて、28,454名にのぼり、県下有数の同窓会を有します。その同窓会の運営は、次の役員の方々と各卒業回数毎に5名ほどの理事を設け当たっております。
◇ 平成7・8年度役員
副会長 妹尾 房子(徳女42回)
中川 裕子(徳女42回)
仁田 映子(城東17回)
平田 雅男(城東18回)
五藤 康人(城東27回)
会計 石橋西恵子(徳女41回)
浜松満里子(徳女47回)
森 靖男(城東13回)
松村 邦江(城東23回)
会計監事 矢田 慶子(徳女39回)
西 弘子(城東31回)
更に、歴代の会長、学校長には顧問として助言指導をいただき、鳴門、阿南支部長も設け運営に当たっております。同窓会の事業につきまして、主な事業のみを紹介させていただきます。
4月29日第34回定例総会の開催。この総会の参加者は約200名、恩師の先生方が27名、更に徳女29回卒以前の方が22名参加下さり会を盛り上げて下さいました。
9月 城東祭 体育祭に於て各学年で優勝したクラスに同窓会賞として“金長まんじゅう”を賞品として送るとともに、同窓会長の万歳三唱で体育祭を締めくくらせていただいております。
2月 賞状授与式 卒業式前日城東渭山同窓会賞として成績優秀者・特別活動功労者各5名に賞状と賞品を授与しております。
3月 卒業証書授与式 卒業の祝辞と同窓会入会への歓迎の意を述べさせていただいております。
同窓会は同窓生の同意としてのつながりをお世話させていただくとともに、学校行事などにも深く関わることがあります。本年度は4月28日の創立記念日に城東7回卒、万福寺住職の福島誠浄さんに“出会いとよろこび”という演題で講演を在校生対象にしていただき、また、2月17日にはPTA保護者の方に城東7回卒、藍里病院長の石村栄作先生から、“高校生の心理状態と親子の関わり”という演題での研修会をお世話していただき、好評をいただきました。東京支部の会員の方も機会がありましたら母校と後輩のために何かお世話いただければ幸いです。
また、母校城東高校には創立80周年記念事業の一環として同窓会館が建設されています。役員の話合いの場として、各回の同窓会の会場として利用されています。母校で同窓会を計画されるときは、同窓会館内に事務局(城東17回卒、増田富佐江さん 火・木)がありますので、連絡(0886-26-0055)いただければお世話させていただきます。
今回は、徳島の同窓会の近況を主に説明させていただきました。“母校は心の故郷”“40を越えると、高校時代の仲間がやけに懐かしくなる”といわれる方が多くなっています。帰郷なさった折は、同窓会に連絡していただき、昔の仲間と母校で歓談していただくのも一興かと存じます。
『想い出』
徳女45回 上野康子
私達徳女45回生の学生時代は正に昭和の激動期でした。
昭和20年の春、私達は3年生に進級しましたが、この頃になると他府県より戦災等で転入する生徒も目に付くようになりました。
忘れもしない7月3日は夜の大空襲で、伝統ある徳女も、一夜にして灰燼に帰し大勢の友人も罹災したため相互の連絡も暫くの間、途絶えてしまいました。
空襲当時の想い出については、喜瀬さんが、次の様に語って居ます。彼女の親友である細川さんとは、空襲前夜、何時もの様に、「又明日ね」と別れ別れに家路についたのに、其の夜の焼夷弾で彼女は、片手片足を失う、重傷を負った由で、二度と再び、私達の前に姿を現わしませんでした。この事は忘れられない想い出になって居ます。
其の後、焼け残った富田小学校で不自由な二部式授業が再開されましたが、交通の便もなく、遠くへ疎開した人もかなり居てこれでは充分な勉強も出来ないとの事から先生と生徒が、力を合わせ、校舎の一日も早い復興を目ざし募金活動を始めました。先生方の御指導の元に芝居、踊り、歌、等の劇団を編成して県内各地を巡回興業しました。これを成功させる為には、先生方、卒業生の方々の御努力は並大抵ではなかったと思います。
皆の努力の甲斐もあって思いの外早く、最初の校舎が出来上がった時には、ようやく母校に戻れたと嬉しさがこみあげて来ました。急造の校舎ではありましたが、その教室で何時もお腹がすいて居ても、友と笑い勉強する意欲が湧いて来ました。其の後の学生生活も決して平坦な道程ではありませんでしたが、皆無事、卒業式を迎える事が出来、感慨無量でした。
此の度の原稿依頼により、忘れかけて居た学生生活を思い出し、当時と比べ今の生活に喜びと安堵を感じて居ます。
『雑感』
徳女46回 沢久枝
昭和19年、敗戦の前年に徳女―徳島高等女学校へ入学した私たち46回生は、セーラー服にもんぺ姿で入学試験を受けた。テストは全教科口答試験であった。極端な物資不足の中で、試験用紙の紙もなかったのだろうか。古い明治の洋館建築の校舎に通ったのは、わずかに1年と2ヶ月であった。
20年7月4日未明の空襲で校舎は消失し、富田小学校での仮住い、一棟の校舎を市女と共同で使った。授業は午前か午後のみ、金曜日と土曜日は交代で一日授業であった。立江寺に淑徳寮が出来たのもその頃であった。焼跡に木造校舎が一棟、また一棟と建てられ、私たちは富田小学校から、長い行列を作ってそれぞれ自分の机と椅子を持って新しい校舎に帰ってきた。
卒業式は、その後建てられた体育館であった。その時校名は徳島女子高等学校と変わっていた。翌年、男女共学となり、校名は城東高等学校と変った。 私は昭和24年に徳女を卒業し、翌25年に城東高校を卒業しました。私たちが在校した6年間は、戦争、敗戦、そして新しい民主々義の教育へと、めまぐるしく変化した時代であった。
それから、やがて50年、昨年は敗戦50周年を迎え各地でさまざまな行事が行われ、この50年をあらためて問い直した年であった。私たちの年代を「軍国主義教育で純粋教養された世代」と叫ぶそうだが、まさにその通りで、生れた年に満州事変が始まり、幼稚園の記念写真には「ナンキンカンラクバンザイ」と刷り込まれ、4年生の時小学校から国民学校へと名称が変り、戦時下の少国民としての軍国教育が徹底的に行われた。私はテレビで見る隣国の子どもたちの赤いスカーフや一糸乱れぬマスゲームに自分の小学生時代を重ねてしまうのである。
今、地域の歴史を学び、この地の市史編さんにかかわって20年、私はこの町の歴史を通して、日本の近代の歩みを学んでいる。ぬりつぶされ、教えられなかった歴史、それは現在もなお偽政治により隠されようとしている。私は今あらためて自分の生きてきた60年を見つめなおすために、隣国とのかかわりの中で近代の日本の歴史を学びたいと考えている。
ふるさとを思い、母校を憶う時このような激動の過ぎことであったにもかかわらず、なぜかふるさとの風景は明るい色彩にあふれ、穏やかな風が吹いているのである。
『同窓会に寄せて』
城東16回 佐野和夫
“同窓会”何と云う響きだろうか?この言葉の持つ意味は、広範囲に及ぶ。青春、勉強、仲間、部活、その他もろもろの事。いずれもが純粋な気持ちの頃の行為だから、甘酸っぱい想い出で胸が一杯になる。人は、ノスタルジックな奴だと云うが、でもあの頃の仲間は今、会っても何のためらいもなく、地位も関係なく、なあ、お前(あなた)と呼びあえるのが一番いい。これは男と女の違いは、少々有るかもわかりませんが?だから同窓会を世話したくなるのです。実際のところ、世話人を降板したい気持ちは山々なんですが、今度二度目の登板で、往復葉書の返事の中に、御主人からのお便りで、家内が生きておれば、喜んで出席した事でしょう。もう少し早く開いて頂けたら良かったのにとの御返事には、胸がつまされました。同窓会に、出席された方々は、非常に生活に余裕があり悩み事の少ない同窓生だと云う証しでもあります。会に出席している時間は、人生の問題や、子供、社会などの悩みを忘れる事が出来る処方箋なしの特効薬ではないのかな。でも会が終って、2~3日は何かしら淋しい気がしますが、現実とのギャップが埋めきれない為なんでしょうか。人生、一度きりの人生の中で一番多勢な3年間の仲間は、やはり、貴重な存在です。これからも体力、気力、知力(?)の続く限り同窓会には出席しようと思います。東京方面からの出席の方々本当に有難う御座居ました。3年後にまた、お会いしましょう。
『清瀬の街で』
城東20回 長野美保子
十郎兵衛屋敷の近くで生れ、城東卒業(1969年3月)までの18年間を徳島で過ごした、すだちとお好み焼きのファンです。城東から徳島駅に歩いていく途中、よくクラスメイトと「たこ八」で80円のお好み焼きを食べたことが懐かしい。徳島以外の生活が27年になりますが、朝のニュースで眉山や吉野川が写されると釘づけになってしまう、故郷って不思議なものですね。
「流れ流れて東京へ」ではないが、縁あって東京都清瀬市という北多摩の人口67000人の小さな街で生活を始めて丸9年になろうとしている。東京都立広尾高等看護学園の学生の時に西武池袋線の清瀬駅で降りて、らい病の施設で有名な余生園(東村山市)を訪問したのが、清瀬との初めての関わり、学院が渋谷区の都立広尾病院の敷地内にあったため、「清瀬はずんぶん田舎だな」と思ったものです。
その後、子育てをしながら少し看護婦の仕事をしていたところ、市議選の挑戦の話をいただいて5年前初当選。昨年の4月の統一地方選に再挑戦し、二期目を何とかクリアーしたところです。
かつては社会党に属していましたが、今は離党し無所属、市民派。住民の環境問題、ごみ問題、女性たちの権利をまもる政策実現、障害者の生活権の確保、子ども達の教育問題等々……、清瀬の街づくりの中に弱い立場の人々の意見をどの様に反映させていくべきか格闘中。政治をおじさん達に任せるのでなく、生活感覚を持った女性・男性が政治に関わり、真に豊かな社会を築いていきたいと日々考えている。
ともすれば行政の代弁者になりがちな議員という仕事を、何時も住民の立場にたって住民の代表としての役割をきちんと果していくつもりです。
『近況』
城東25回 岡崎光芳
城東高校の卒業生も平成7年度で47回を迎えると聞いて、私が卒業して22年も過ぎたかと感慨ひとしおです。
高校入学試験日の寒かったこと、1年、2年、3年のそれぞれの友達の顔や出来事、先生の講義の様子など3年間の高校生活はあっと言うまでしたが、今でも鮮明な記憶として残っています。
城東高校の生徒だった1970年代初めは学生運動・フォークソング全盛時代でした。最近のリバイバルで、懐かしい映像や音楽に接することが多く改めて楽しかった高校生活を思い出します。
現在の仕事は、発電所を監視・制御する計算機システムの開発・設計です。コンピュータを勉強したいと思ったのは、確か高校2年の担任・阿部健先生の進路指導で大学に新しい学問として「情報工学」というのができるという話をお聞きしてからだったと思います。
発電所の仕事をしているおかげで日本各地や、時には海外に出張する機会も多いのですが、やはりふるさとの空気や食べ物は特別です。父母はまだ徳島で生活しているので、ほとんど毎年帰省しています。帰省中は、冷たく甘い吉野川の水の味を味わい、東京の雑踏から離れることで十分に心のリフレッシュをしています。
『徳島までの距離』
城東26回 小泉弘子
現在、私は主人と長男(11)、次男(9)、の4人家族で、横浜に住んでいます。主人とは、城東高校2年生の時の同級ということもあって、この度、初めて2人で同級会に出席いたしました。大先輩方の中、戸惑いもありましたが、色々な分野でご活躍されているお話に触れて、心強い気持ちで帰ることができました。
結婚と同時に、徳島を離れて15年、年に数回は帰郷したり、両親が上京したりして、お互いの距離は、変わらないつもりでいました。でも最近になって時々、感じるのは、子供達はともかく、私達夫婦が、徳島の方を、あまり振り返らなくなっているということです。今年の夏には、都内への引越しが決っていますが、これでまた少し、故郷が遠くなるのでしょうか。だからといって、淋しさや不安があるという訳ではありません。どういう場所で生活していても、それぞれ目的や生きがいなどがあるもので、それに向かって、「喜怒哀楽」を繰返しているのではないでしょうか。
徳島に行く時の、飛行機の窓から見下ろしていると、少しずつ様子は変っているものの、見慣れた景色が広がり迫ってきます。空港に降りると、穏やかな空気の中で、体や心の力が抜けてほっとする瞬間があります。また、羽田空港に着く時には、違った意味で、ほっとして、体中に新しい力が湧いてくるような気がします。
この二つの感覚は、15年前から何度も繰返されているもので、私は結構、気に入っています。これらを味わいたいが為に、往復しているのかもしれません。
徳島の山や海は、私達家族をいつも、大きく手を広げて受け止めてくれます。もちろん、自然ばかりでなく、両親や兄弟姉妹、旧友など、徳島の人達も、そうです。
恩師 先生
なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況をお伝えいただきました。
『気ままな生活』
山川邦直
城東高校関東支部の皆さんお元気でしょうか。
私も60才で高校の教員を退職してから10年になります。退職してから、3年は郷土文化会館に勤め、1年休んでから5年間、阿南高専の数学の非常勤講師を勤めましたが、70歳を迎えて毎日が日曜日の生活に入りました。
毎日、起きながら、今日は何をしようかな、というような気ままな日々ですが、自分の気の向くままね生きて行こうと思っています。
今月も、東北の蔵王の樹氷を写したくなって2月13日、14日と蔵王温泉に泊りました。丁度13日の夜に雨が降って樹氷が消え、目的を果せませんでしたが、スキーヤーに囲まれて、昔、楽しんだスキーをすべりたいな、と思いました。
退職してから、最初にハワイ、2回目はイギリス、イタリア、ドイツ、スイス、フランス、3回目はもう一度、ドイツ、スイス、フランスとカナダ、5回目は北欧4ヶ国、6回目はイタリアで12日間、昨年はベルリン、プラハ、ウィーン、プタペストと回って参りました。
永い歴史を持ったヨーロッパには無限の魅力があります。いつまで生きれるか分かりませんが、歩ける間はどこかで歩きたいという気持ちです。
皆様の殆どは、旅に行きたくとも時間がない、仕事におわれた毎日を送っていられると思いますが、いつかは時間を見つけて、世界を見てほしいと思います。日本もいいけれど、外から見れば別の面がある。自分の日常の生活にも、別な生き方があるかも分からない。とえらそうなことを思っています。
昔、青年時代に愛読した夏目漱石の理想は「即天去私」
私などまだまだ、そこまでは近づけませんが、出来るだけ、それに近い毎日を送って見たいと思っています。
生きていなければ、果せませんので、毎月1回、病院に通い、薬を貰って、生きています。
皆さんもお元気で、近況をお知らせ下さい。妾言多謝。失礼します。
ひと口インタビュー
蔭山武人さん 城東13回
パワー全開! 阿波踊り
かげやま・たけと NHKチーフ・アナウンサー。
I.C.U. 卒業。正統派の語り口と甘いテナーの音声には定評がある。
寂聴師、鎌田敏夫さんに続いて3回目のインタビューは、NHKアナウンサーの蔭山さん。誌面の関係でほんの一部ですが、お伝えしたいとおもいます。
―― まずプロフィールから
蔭山 生れは昭和18年、10月22日、天秤座。血液型A、ひつじ年。城東高校卒業は37年、第13回生です。
生まれた所は、実は今の東京都大田区。父の実家というか本籍が美馬郡の穴吹でしたから、山梨に疎開した後、戦後4歳ぐらいで徳島に移りました。住まいは徳島市内で、新町幼稚園、付属小・中、そして城東高校です。
―― 高校生活は
蔭山 川人先生が顧問の合唱部にいました。レベルはかなり高かったと思いますよ。今でもカラオケは大好きです。生徒会の役員もしていました。当時ラグビー部が強くて、誇らしかったのですが、部活動費の分配会議などでは、かなりプレッシャーもありました。
―― それから大学へ
蔭山 私は数学が全くダメ。3年時、幾何のテストで得点4というのもありました。浜先生、あのパチンコの好きだった浜先生の授業です。ただ英語は好きでしたし、得意の課目でしたからこの方向に進みたい、外交官になるのも夢でしたから。
進学したのはICU、国際キリスト教大学です。徳島県からは確か二人目だと思います。英語では柏原先生、宮岡先生、このお二人の授業が印象的です。
―― ズバリ、高校時代の思い出といえば
蔭山 やはり“阿波踊り”です。小さいころから踊っていましたから、あのリズムは体にしみ込んでいますね。高校時代は特に運動だと思ってました。踊って帰ったあと、ざるそば5枚、田舎風のたっぷり盛ったやつです。それを、これはもう時効ですが、ビールを軽く飲みながら、ペロッと平らげる。爽快な思い出です。
―― 今、徳島については
蔭山 NHKに入局して最初が高松局。西日本を中心に各地で仕事をしました。
徳島時代は、田舎での生活が、都会のそれに比べて損をしているような、素朴に都会にあこがれていました。その土地土地での仕事を通して、日本にはいっぱい田舎がある。その地方都市、そして放送局は地域の公告塔、情報発信基地であり、地域とともにある。東京や大阪などの中央に対してこの地方をどう盛り立てるか、そんなことを考えながら、それに何とか役立ちたいと思い続けていました。
徳島にも4年間ほど勤務しまいた。
北九州局時代「明日を語ろう」という番組を企画しました。これは製鐡産業が衰退する中、この町をどうすればいいか、ということを市民のみなさんといしょに考える、という番組でした。
アメリカのピッツバーグという、製鐡の町として有名な都市があり、この町の衰退と再生に学ぼう、というのが最終的なメッセージで、市民のみなさんにも大変好評で、私にも思いで深い企画でした。
徳島に対する思いも、随分変化しました。徳島には徳島の良さがあるということです。
また徳島で、みんなに会えるのを楽しみにしています。 (渋谷・NHKにて)