平成6年の活動について
城東渭山同窓会東京支部副支部長
城東16回 竹口 省三
東京支部の会員の皆様は卒業年次ごとに、クラスごとに折に触れ集まって楽しい時間を過ごされているようですが、支部全体としての最大かつ唯一の行事は、例年6月の第二日曜日に開催される東京支部総会とそれに続く親睦会で昨年は、6月12日に徳島から母校の疋田校長先生を始め5名の来賓を迎えて、千代田区平河町の『四川飯店』にて行われました。太田支部長の挨拶に続いて、校長先生や同窓会本部役員のご挨拶を頂いたあと、会計報告や事務連絡が行われ支部総会を終了し会食に移行しました。
あちこちで歓談の輪ができ、昔ばなしに笑いが広がり、友の消息に思いを馳せる頃、今回の幹事学年城東第8回卒業生の豊田代表幹事のうち鳴らす阿波踊りの鐘のおはやしに乗って、にぎやかにビンゴ大会となり、故郷徳島の同窓生から送られた「わかめ」や「すだち」を始めとする豪華景品に、リーチ、ビンゴと大騒ぎのうちに親睦会も時間が過ぎて、再会を約してそれぞれの学年や、お目当ての人との二次会へと流れて、支部総会は散会となりました。
現在、関東地区に住み東京支部会員として登録している会員数は約2,000名です。毎年新しく城東高校を卒業して、また転居で関東地区に居住する同窓生はかなりの数に上る筈ですが十分に把握できておりません。住居の移動の際や、未登録の会員をご存知の方は必ず支部事務局へ御連絡下さる様にお願い致します。
別紙にてご案内のとおり、今年も6月11日に支部総会が開催されます。総会後の親睦会は、今年は特に楽しい企画が用意されています。今まで出席された事のないヤング、オールド会員のみなさん、ぜひ足をお運び下さい。
城東高校近況
教頭 真島 豪之
平成6年度も学校週五日制の調査研究協力校として研究を続けました。第二土曜日は家庭学習日として、家庭での主体的学習が習慣化するように休業日としました。かなり学習への主体的取り組みができた人もいましたが、ゆっくりと過す人もいました。本来のねらいはゆっくりと過して自主的主体的な生活をすることにあると考えられますが、貴重な時間を有意義に過して欲しいものです。
第四土曜日につきましては自主学習日として、課題をもって登校してくる生徒については、一年生は基礎学力養成のために自主学習を奨励しました。三年生については進路目標達成のために実力養成をめざし自主学習を奨励しました。かなり多くの生徒が登校して自主学習に励みました。二年生については、社会教育施設や文化施設を利用したり、伝統芸能鑑賞会やダンスフェスティバル(創作舞踊発表会)、郷土料理づくり、映画鑑賞会等生涯学習につながる活動を奨励しました。多くの生徒が登校して興味をもって活動しました。何かきっかけがあれば積極的に活動することがよくわかりましたが、そのきっかけを自主的主体的につくって活動していくようになれば一層効果があると思われます。
つい先日516名もの卒業生を出しました。城東高校になって第46回ということで、前身である徳島県立高等女学校と卒業生の回数は肩を並べました。これからがいよいよ城東高校の発展期にはいっていくと思われます。同窓会の皆様方には大変お世話になって深く感謝いたしています。
『阪神大震災と私』
城東高校渭山同窓会副会長
城東18回 平田 雅男
平成6年1月17日早朝5時46分、徳島市のマンションで太平の眠りを貪っていた小生は、ドーンといった衝撃音と大きな揺れで、否応なく眼を覚まさせられた。寝ぼけまなこで、扉の開いたタンスと書籍が落ちる本棚を必死になって押さえた。その時はまさかこんなに大きな被害をもたらした大地震であるとは思いもしなかったが、直ちに点けたTVによるとかなり大きい激震であることがわかった。ニュースによりどうも神戸の被害がかなり大きいという報道に、自分の顔色が変わるのが感じられた。神戸の女子大で教鞭をとる妻と一歳半の娘が現地にいるからである。すぐに神戸の妻に電話したが、全く通じない。火曜日のことであり、仕事を休むわけにもいかず後ろ髪を引かれる思いで出社した。その朝九時半頃ようやく電話連絡があった。受話器を取ると聞きなれた妻の声。
「家は半壊状態、家電製品も家財道具もみんな駄目だけど、娘も私も生きているから取り敢えずは安心してね。今、公衆電話からかけているけど私の後ろに大勢の人が居るから1分間だけしかしゃべれないのよ」との言葉。8ヵ月の身重で幼い娘を抱きつつ悲痛な面持ちで電話してきている様子がひしひしと伺われた。受話器の向こうから怒鳴り合うような大勢の声と救急車のサイレンの音がはっきりと聞こえ、被災現場の様子が容易に想像できた。その後4日間、被災者として須磨区でテント生活を強いられた家内と娘は、パジャマ姿で乾パンを大事そうに抱えて無事帰って来た。
これが、何千年か何万年に一度あるかないかと言われ、5,400余名もの犠牲者を出した阪神大震災における小生の最初の体験である。その後1か月して後片付けのため被災地へ向かったが、完全に陥没した岸壁、折れ曲がった鉄道の線路、鉄筋向き出しに倒壊したビルなどを目の当たりにし、予想以上の被害の大きさに驚いたものであった。
我々は普段何一つ不自由することのない生活に慣れ親しんでいるが、大自然の脅威の前には、かくも脆い存在であると言う事を身をもって体験した。今こそこの体験を生かし日頃から非常時への有効な対策を考慮しておかなければならないという事を痛感した。天災は忘れた頃にやってくる…。格言のもつ深い意味合いを実感した今回の震災であった。
特別インタビュー
『やはり、いい友達 面白い友達との思い出』
鎌田 敏夫さん 城東7回
かまた・としお 脚本家 早大政経卒
時代を的確に切り取り、骨格のしっかりしたストーリーと、キャラクター作りには定評がある。最近の代表作には『金曜日の妻たち』『男女7人夏物語』『29歳のクリスマス』など。『29歳~』で芸術選奨文部大臣賞、向田邦子賞を受賞。
創刊号は瀬戸内寂聴師でしたが、今回は、いつまでも若々しい感性でドラマを作り続けている鎌田敏夫さんにお話をうかがいました。楽しい思い出とエピソードの一部分ですがみなさんにお届けします。
―― 鎌田さんは31年卒業ですね
鎌田 そうですね。31年、第7回の卒業生になりますか。
―― さっそくですが、鎌田さんの城東高校時代のスクールライフ、思い出などを聞かせて
ください。
鎌田 特にクラブ活動などはしていませんでしたが、バカなこともけっこうしながら毎日楽しく過してましたね。
面白い、いい友達がいっぱいいました。
ぼくの実家というのが、徳島駅から学校へ行くちょうど途中にあったんです。駅構内の端のほう、鉄道病院があって、その向いくらいかな。だから友達連中は、学校の行き帰りに寄っていました。ぼくがいなくても家に上がり込む、というのもしょっちゅうでしたね。
三年生になると、クラス分けというか、就職クラス、普通クラス、それに受験クラス、まあエリートのクラスというのですが、そういうのが突然できて、反対運動が起こったというか、起こしたのをおぼえています。結局、首謀者だった、ぼくともうひとり後で京大に行った矢部という男が、反対したことのケリをつけるという形で、受験クラスをやめたことをおぼえています。
いろんなことがいっぱいあって、高校3年間は、楽しかったですね。
ぼくたちのクラスは、男女の仲がよくて、休み時間もワイワイガヤガヤ。よく鳴門とか、八多の滝などに遠出もしました。昼休みに男女一緒にバレーボールなんかしていると、他のクラスの連中がうらやましそうに見てました。
今でもこの友人たちとはつき合いがあります。東京に住んでいる連中とは、機会があれば飲んでいますが、話の中味は高校時代と変わらずバカげたことです。
昔の友人たちと一緒に飲んでて、仕事中心の話に終始することが多いという話も聞くのですが、ぼくたちにはそういう話題は、ほとんどありませんね。
―― 今の仕事、脚本家への道というのは、学生時代から考えていたのですか
鎌田 いや、特にそんなふうに考えていたわけではありません。
本当はサラリーマンになりたかった。サラリーマンにあこがれていたんです、あの頃は。普通の人が自由業にあこがれるのと同じようなものでしょうか。
当時は就職難で、就職しなかったというか、できなかったというか。ただ、映画は好きでしたからよく見ていました。これは昔からで、中学、高校時代、徳島で見られる映画、特にアメリカ映画はほとんど見ています。この映画好きはあとで仕事に大変役立っています。
とにかくブラブラしていても仕方がないので、シナリオの学校に通いました。
その時、講師として来ていた作家の方に弟子入りしたのが、この世界に入るきっかけです。
師匠は井出俊郎さんといいまして、映画の『青い山脈』の脚本家です。けっこう長くて6年間弟子でい続けました。
その6年間に学んだことが、その後になって本当に役立ちました。ただし、シナリオの書き方なんてものは、一度も教わらなかった。
―― デビューはどんなふうでしたか
鎌田 ちょうど映画の人気にちょっとかげりが見え始めて、テレビがおもしろくなりかけたときでした。『飛び出せ青春』という青春シリーズです。テレビを見た友人が、おれたちの高校時代の方がもっと面白いなんて言ってたこともありましたけどね。
―― 最近の仕事に関するお話を少し
鎌田 昨年の秋から暮にかけて放映したドラマなんですが、『29歳のクリスマス』といいます。二人の女と男一人、この三人の友情関係を基本に、親子の問題や、友情、恋愛、仕事、つまり生きていくことのすべてを描いた作品です。
このドラマのヒロインのように、30歳前後の女性は、すごく魅力的ですね。結婚というものに対する考え方も、以前とは変わってきていると思います。
女の人が強くなったといわれますが、それは自分を大事にして、自分で判断する、寄りかからないとでもいうのでしょうか。実際にこの年代の女性は、仕事以外で話をしても、お酒を飲んでも、元気で、自分をしっかり持ってて、好奇心も旺盛で、面白い人が多いですよ。
近況・雑感
『徳女は焼けました しかし……』
徳女44回 佐藤 敏子
昭和20年7月、私は鴨島町郊外の伯母の家から徳島市外が空爆で燃える空の赤さを息をのんで眺めるばかり。
徳女に疎開転校したのはその年の春、徳島は父祖の地であり、母や伯母たちも徳女の卒業生。いとこのモトちゃんも同学年に在学中という深い縁がありました。
空襲後、今思えば無謀にも私は汽車通のお仲間と共に、まだ余じんくすぶる市内の焼け跡を歩きました。さながら今年の阪神大震災の焼け跡のように、景色は一変し、もう何もない! 徳島駅も、父の生家も、徳島城跡の鷲の門。そして、あの由緒ある徳女の校舎も。
その後、富田の仮校舎で1年半学び、私は再び東京に住んで徳島にもごぶさた勝ちとなってしまいました。
しかし約10年前、宝塚での同期会に出席したのをキッカケに旧交復活、東京での同期会のお手伝いもして更にお付き合いが広がりました。同期の方々それぞれ、家庭で職場で或いは両立して堅実に実績を上げて来られたことをさすが徳女と感嘆。ここで各々のお名前を挙げる余地がないのが残念です。
徳女という旧株の上に、今や堂々と大木に成長した城東高校のご隆盛と徳女卒業生の方々が、そのご子孫に至るまでお幸せな日々をと願っています。
『遠き思い』
徳女41回 仁木 操子
戦後50年とひと口に言いますが、私達昭和の初めに生まれた者にとっては感慨深いものがあります。思いおこせば、昭和15年憧れの徳女に入学しました。しかし16年12月には太平洋戦争に突入し、世の中は次第に軍国調一色となり、スカートはモンペ姿となり着る物は地味な物ばかりでした。そのうち学徒動員が始まり授業を中止し、交替で陸軍の夏衣の縫製にミシンを踏みました。流れ作業なので、微妙に色の違う布を何十枚も重ねて裁断してある為、一枚ずれると、ポケットや衿の色が違って色合わせに苦労しました。仕上がりの点検で合格するかどうかと心配でした。
その後田宮町の川崎航空の軍需工場へ出動し、航空機に積む酸素補給筒の製造に励みました。最初はハンダ付けの作業がうまく出来なくて皆さん苦労したようです。工場で昼食に出たひじき弁当も、当時はおいしくいただきました。昼休みに、日だまりで流行歌を口ずさむのが、ひとときの安らぎでした。
私達の青春時代は、何事もお国の為と、黙って耐えて働く日々でしたが、それ故時代の荒波を乗り切る力が養われたと思います。月日がたつにつれて記憶も次第に薄れますが、当時の事は折りにふれ思い出す事でしょう。
『いざよい会』のこと
城東16回 本間 和
「いざよい会」この名から、中世の有名な日記文学を思い出して、私ども城東16回卒の集まりを「十六夜会」と優雅に書くと想像される方も多いかと思いますが、実は「いざ酔い会」と表しております。10年ほど前に卒業後初めての同期会が徳島で開かれ、その折の名簿をもとに東京でも毎年20名余りで集まっているのです。年々の幹事のアイディアで東京湾のクルーズになったり、箱根の一泊だったり、修学旅行を想いだそうと、銀ぶらバスというレトロなバスに乗ったりと、色とりどりのプランに、おいしいお料理、たっぷりのおしゃべり付き。毎年一回、タイムマシンで揃って高校生気分に戻れる日を楽しみにしております。
数年前、私達が総会の担当学年の折に30回卒あたりまでの名簿を整理して、学年幹事を決めてもらったことがありましたが、若い学年ほど連絡に苦心しました。この「藍」も若い人々に興味を持って読んでもらえるようになると、より同窓会が身近に感じられると思います。今までクラス会をやっていなかった学生の方達から、開催の呼びかけの投稿などしていただいて、小さい集まりから少しずつ輪が広がるという形にでもなればよいのですが…。「いざ酔い会」は心の暖炉なのです。
『近況と雑感』
城東24回 栗田 宏美
私は、ヤマハ音楽教室講師として17年間勤め、昨年4月に退職し現在は自宅で音楽を教えています。
城東高校を卒業し、徳島を離れてからもう20年以上になります。徳島で暮らした年月よりも東京で暮らした年月のほうがいつのまにか長くなってしまいました。
それでも、いざ高校野球になると徳島の出場校を応援してしまうのには自分でも不思議な気がしています。見ている自分はすっかり高校生に戻っているのかもしれません。
高校での三年間はあまりにも短かったのですが、自分の将来を選択しなければならない重要な時でもありました。楽しいことばかりではなかった高校生活も、今ではなつかしく思い出されます。
徳島に帰るたびに、駅周辺の変化には驚かされますが、城東高校はそれほど変わらないシルエットを見せてくれてホッとします。いつまでも誇り高いちょっと気取った高校であり続けてほしいと思っています。
とくしまNOW
『徳島へ、徳島から』
城東16回 手塚 喜久雄
驚天動地の阪神大震災が起こり、その余波が未明の徳島を襲いました。
この日、初老の人は「南海大地震以来の揺れ」と語り、若者(含む南海…を知らない私たちの世代)は、一瞬、目を点にした後、その言葉の意味と、今朝がたの体験をよみがえらせ、この地震の大きさに改めて震撼しました。
その後毎日、TVに映し出される自分自身の恐怖感や、神戸市から一時帰省した息子、西宮駅で被災しためい、支援活動(身近な阪神地区の災害ですから、徳島からほんとうにたくさんの方々が、公私にわたり上阪し、淡路に渡っています)から帰ってきた者の話などが重なり、とても他人事とは思えない生々しいものを感じています。
地震の際、とっさに妻子をかばい父親の威信を上げた者、別室に寝ていて、揺れに驚いて外に飛び出し、地震が収まってから家に入ろうとして、玄関で初めて顔を見合わせた夫婦など、日ごろ大切にしているものが、はからずも眼の前で音をたてた様は、さながら、「徳島大震災」の人間模様でした。
さて、故郷徳島は、むかしと変わらぬ清明な水と空気につつまれ、ふりそそぐ陽光の恩恵を受け、山海の素朴な好食材にはこと欠きません。
新鮮なだけでなく、ユズ酢のぼうぜずしや、とりたてのアジのたたき、さざえやアワビ、歯ごたえのしっかりとしたワカメ、シラスちりめん、それぞれの味をひきたててくれるスダチなどがさまざまにあり、こうしたものを口にするとき、なぜか母親を想い出し、そして、親への感謝の気持ちと、異郷での友人の事を思い出します。
いま徳島の人々は、自然を大切にし、ふるさとの産品を同郷の方々にお届けするだけでなく、この豊かな天恵の幸を皆様とともに享受したいと願って、収穫を喜び、全国へ発送しています。
なつかしい山河を家族と語り、また友人と歓談するとき、ぜひ、ふるさとの商品をお供にお加えください。
楽しい語らいと、明日への活力と、本物のグルメの旅をお約束します。(平成7年2月)
恩師 先生
なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況をお伝えいただきました。
『先生の想い出』
徳女42回 三田 利子
女学校というより「徳女」といった方がすんなりとなじむ様ななつかしさを覚える。その「徳女」を本来ならば五年制で卒業するはずのところを戦争のため、銃後の戦力となるべく昭和20年に41回の人達と繰り上合同卒業式をしたという歴史を持っているのは、私達42回のみではなかろうか。
その様な次第で5五年間で習うべきものも4年間の内に詰め込み授業だった。
仁木先生のエネルギッシュな漢文の速成授業は、食料不足で充分食べていない頭にも砂に水がしみこむ様によくわかった。今でも麻雀の合いの手に、漢詩が口をついて出てくるのは、そのおかげと感謝している。多謝。
仙谷先生には東洋史・西洋史をお教え頂いた。授業の前に時事解説をして下さる楽しみがあった。小柄なお体で教卓の上に両手を揃えて、真摯なお姿で丁寧によくわかる解説であった事が忘れられない。市尾先生は四年生の組担任で国語の授業をお受けした。現在は鬼塚姓に変わられたがいつも口もとにはほほ笑みをたたえ、少し前かがみになって授業を進められた。次の尾崎放哉の自由律俳句に驚いた事もなつかしい。
入れものが無い両手で受ける
先生の両の掌で受ける仕草。萬葉集唇を小さくつき出す様にして昂揚なさった面持ちで語られた事などが、わくわくする程、鮮明に動き出す。
校長先生は西村先生から窪田先生へと代わられた。こうして書いているとつぎつぎとその時どきの先生方が思い出されて、徳女時代にかえっていく自分がいとおしく思われてくる。
『能楽三昧』
天野 義雄
徳島は藩政時代より藍商人の豊かさから阿波の芸どころといわれ町人文化が発達したところである。現在の徳島は、能楽においては謡曲人口の少ない後進県であるが、歴代蜂須賀家のお抱え能役者は喜多流で、役者絵師、東州斎写楽は阿波藩江戸詰の能役者であったという説もある。また、鳴門には紀貫之の土佐日記の史跡のほか小宰相局の墓があって謡曲「通盛」の悲劇を今に伝えている。2年後のことであるが平成9年5月が鳴門市制50周年に当たるので、記念事業の一つにと「通盛」の薪能を企画している。
昭和52年春、私の家に小さな能舞台ができた。旧の地名をとって北町舞台とよんでいる。私の主宰する喜多流喜陽会の稽古場である。今年(平成7年)は私の主宰歴25年と、春秋2回の喜陽会(発表会)は秋の喜陽会で50回記念会となり徳島駅前の四電プラザホールで記念の能楽講話「世阿弥と花伝書」を予定している。定年退職から6年目となるがお蔭様で心身共に快調で謡曲・仕舞・小鼓・太鼓など能楽百般の指導で多忙な毎日である。
昭和30年から40年3月まで城東高校(社会科)に在職。30年10月の放課後のこと、宿直室から変な声が聞こえてくるので部屋の障子をあけると島村萬舞校長・板羽立雲教頭・新居正彬国語科主任など国語科の先生方が教材研究のため謡曲の稽古をしていた。社会科の若僧が顔を出したので先生方が面白がって私を引っぱり込み座らせた。これが私の謡曲や能楽との出会で丁度40年前のことになる。思えば私の今日在るは、城東高校のお陰。只々、感謝の気持ちで一杯である。(鳴門市撫養町斎田字岩崎九十九)
編集後記
創刊第2号の準備は、あの大震災の頃に始まり、その後サリン事件で騒がしい東京ですが、久しぶりの故郷は、眉山の桜が満開で、城東で過したあの頃と同じく平和そのものでした。